サキュバスの晩餐

sakyunの日記

事業仕分けというと蓮舫

蓮舫といえば事業仕分けとばかりに、マイクの前でマシンガントークのイメージばかり浮かんでくる。はてなでは スパコン予算が削られかけた話題が沸騰していた。
そんな話題の賑わいの中、いつのまにやら若者自立塾事業が廃止と仕分けられ、ついに本当に廃止してしまうらしい。

事業仕分けの中で いままで国はこんな事業をやっていたのだと、気づかされることも多かった。意外といいことやってたんだ、と かつての自民党政権時代を見直す気持ちさえ起きた人も少なからずいるだろう。

若者自立塾は、ニート、引きこもりを24時間態勢でサポートし自立を促進していく事業だ。費用対効果という面ではもちろん目に見えてすごい成果は見えるようなものではない。自立塾を卒業してすぐに、それまでのニート君が一転、突如として起業して社長になり、翌年には高額納税者になりましたなどというミラクルが全員に起きれば 費用対効果があったと認められるのだろうか?

今のところは、予定した人数枠に達していない、卒塾後の就業率が100%になっていない。だが、長い目で、ニートが働けないまま家にこもり続けることで消耗する家族の苦悩、やがては親が没して子が生活保護まっしぐらの場合の公的負担を考えると、決して不必要な事業ではないだろう。むしろ、これから、ニート引きこもり支援は海外の事例も参考にして 発展、進化させていくべき方向だったのだと思える。目先の節約を考えてコンセントをちまちま抜きまくるような視野の狭い損得勘定のせっかちな仕分け根性で、どうして人を守り育てることができようか。
例えば、15歳で引きこもった子供には その後15年かかって、その子らしさを取り戻せるかどうかだと私は思う。国がまるまる15年を面倒見切れなくても せめて一人で世の中に歩き出す勇気をもてるまで 最低限の力をつけられるよう 今まで同様の期間かそれ以上の期間は支援してもいいのではないか。

ひきこもる子は昼夜逆転の生活に陥っている事が多い。そして 彼らを囲む家庭が 子供のひきこもりが始まる以前から他人には相談できないような暗い問題を抱えていたり、あるいはひきこもりが始まってから、子供を巡って家族間の対立が深まっている。通所型の地域若者サポート ステーションで事足りるとする説もあるようだが、ひきこもり問題が長期深刻化していない段階の内はそれもありだろう。親子ともども、改善するまで通所しつづけるモチベーションと意欲がまだあっただけラッキーというケースだ。もっと酷い状態にズタボロになっている親子は通所を続けられない。彼らが よそ行きの仮面を付けてがんばることに疲れてしまうからである。そして 行けなくなってしまって 自己嫌悪、失望の悪循環に陥ってしまう。

引きこもり期間があまりに長期で、深刻化している場合は、機能不全に陥っている家庭から離れて暮らすのが、当人にとって、かえって良いように思う。自立塾の中で暮らすことで他人と関わらずにはいられない環境に身をおきながら、家庭では可能だった昼夜逆転生活でズレた時間感覚を、規則正しい生活リズムに修正することが、とても大切だ。
コミニュケーションの訓練において家族は他者にはなりえない。親子の間には甘えがあり、許しがあり、負い目と怒りが、たまりにたまっている。他者とのコミニュケーションの困難さを 練習して克服していく場面を重ねて自信をつけていくためにも、若者自立塾のように 生活まるごと支援者が寄り添って歩むことで、心優しく挫けてしまった子供たちが 厳しい社会にダイレクトに接する前にワンクッションおく、ならし訓練の場所は必要だ。
お金持ちの子供のニートひきこもりは 破格の費用を要するひきこもりニートをスパルタで立て直しを売りにしている徳育ビジネス業や 高額な授業料がかかる私立の不登校児専門に募集の学校にゆだねることもできるだろう。だが、庶民は?貧しい家庭の子は?金銭的な余裕がなければ無理である。

わたしがある市の委員会に出席していた時、会の中でそれこそ費用対効果の論議がもちあがり、財政緊縮の折、やはり節約モード優勢で話が進んだ。その時 当時の市長が「確かに 費用対効果の視点も重要ではあるが たとえ収益があがる事業でなかったとしても 社会的弱者を手助けするのは公の事業なればこそやれることであり やるべきことであると思う」という趣旨のことをおっしゃり、場が収まったことがあった。

部屋からでてこれなかった子供が 元気にイキイキと外に出られるようになるのは プライスレスだ。金には換えがたいほど計り知れない価値だ。なにより当人にとって、そして親にとって、最終的には社会にも。 公の事業だからこそ 民間の採算主義では至らない部分を越えてほしい。

若者自立塾事業廃止が 残念でならない。