サキュバスの晩餐

sakyunの日記

市橋容疑者に

呼びかける大学恩師のホームページが テレビニュースでとりあげられていた。逮捕後もネット上で話題になっている。その多くは「彼も普通の大学生だったのだ」と驚いている意見表明だった。
新聞で見かける週刊誌の見出しでは異常性や残忍性、特殊な性癖が強調され、恐ろしい印象ばかりが強められていたようだ。

過去に あんな行動をとったから、現在あのような行動をするのは 当然である、という感じ方について考えさせられた。
良くない出来事に関して、まるで正比例のグラフのように 時間の進行につれて 悪い面が強まっていくのが成り行きとして当たり前のように感じてしまうことがある。だが、それほどまでに 過去の経験は 現在の個々の有様を規定しているのだろうか。例えば、ろくでもない親に育てられた子供は もっとろくでもない大人になり、若くして躓いた若者は つま先でさらに深い穴を掘って墓穴奈落よゴロンゴロンと落ち込んでいくばかりなのか?
なんとなぁ〜く日本人に染み付いている因果応報思想、あるいはダーウィンの進化論、それとも最近流行の自己啓発系本のネタ的に原因と結果の法則などに由来するのかな、どうなんだろ?まあ、ともかく、この世界で起こる色々な物事が、過去から未来へと 水が川上から川下へ流れるごとく自然であるかのように受け入れられてきた、というところはあるよね。
 
でも、過去の結果が現在であるとしたら、説明のつかないことがある。過去の行為から想像できないような行動をとることだって人にはままある。立派な親がいても子供がグレることはある。躓いた若者が皆、なるほどいかにも挫折するべくして挫折したと納得されるような生き方をしてきたのでもない。

仮に、流れを変えてみたらどうなるだろう。誰だって、タイムマシンに乗って歴史上の事件を塗り替えるような大げさなSFを実際やってのけることはできない。だけど、自分一人の心の持ち方ぐらいは変えられそうな気がする。未来から現在の自分へ 時間が流れ込んでくるように方向を変えて考えるようにしてみたらどうなるだろう。現在を決めるのは 未来に起こるべきできごと。たとえ過去に躓いたことがあっても、現在の状態はその延長にあるとは限らない。これからどうなりたいか、どうしたらいいのかが定まれば、過去の延長と違った今、未来が流れを作った現在が定まってくるので、おのずと今なにをしたらいいのかが決まってくるんじゃなかろうか。
むぅ、でもわたしの問題は これからどうなりたいかが見えてこないっ、こまったわん(^^);