サキュバスの晩餐

sakyunの日記

余命もの系の美談

ヒロインが不治の病に倒れて悲劇の中で愛が輝く系のお話は 古くは映画、ある愛の詩、あたりが 開拓したのかと思っている。 

ある愛の詩 [DVD]

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世の中、泣かせてくれるコンテンツを求める 心優しい消費者層が多いのだろうか。
最近も 余命いくつ?の花嫁とか、余命のカウントすでにゼロだけどがんばって生きてますとか、本屋にはわらわらあるし、テレビでも 似たり寄ったりのドキュメントタッチの再現ドラマが 思い出したように放映したりする。そいや、セカチューってのもあったっけ。
この手の泣かせますドラマが好きな人が職場にいて、かならず観た翌日には「泣いたー!」と 報告してくれるのですが、ちょっと複雑な気分になります。だって わたしそれこそ不治の病で研究と治療研究のさかんな癌よりも手の施しようの無い難病で 余命なんかとっくにリミッターふりきっちゃってるし、それでもどっこいしぶとく生きているんですけどね。死にかけコンテンツとでも申しましょうか、それらを消費し泣ける人というのは 死は遠い別世界の物語なのでしょう。まさか自分の隣にも 歩く死にかけコンテンツがいて 同じように働き 飯食ってクソして生きているとは思いもよらないのだろうな。

バイト先には 病気のことは公開していません。体が弱いとわかった時点で採用されるわけないです。多少なりとも 体が動くうちは稼がないと暮らせないから、健康を装い できるだけ体力を要しない業種を選んで、気合いで働いてます。

引っ越してから 病院は行っていません。本来は 前の病院から紹介状をもらって、経過を引き継ぎつつ、次の病院で 定期検査を受けるべき、とは わかっているのですが。転院直後は かなりお金がかかります。 前の病院からのデータがないわけじゃないけれど、すごろくでいえば、いったん「ふりだしにもどる」の状態で 最初から検査を総なめして行われます。ひっこして節約なりにもお金がかかったし、就職も当初の見込みより遅れたため、予想より出費大!とても新しい病院どころではなくなってしまいました。
次の病院に行かなくちゃとわかっていても、治る方法はないので通院のはりあいもなく、ただ検査で時間とお金と煩わしさが積もるような気がして、余計おっくうになっています。ただし 通院してデータをある程度持ってくれていないと難病だけにいざ緊急!の対応が後手に回る可能性もあります。だから ずっと病院に行かなくてもいいということにはならないなぁ、むぅ。
実際のところ現場の当事者達にとっては 悲しくも美しいエピソードなのだろうか。わたしにはとてもそう思えない。
死を前提にした病は 金銭問題と後悔と苦痛のあいまった泥の中の泥人形のようなやるせなく醜いものだ。現場には悲しみの涙こそあれ、感動で泣ける要素のかけらもない。
がんばって生きるのが素晴らしいって?わたしに限っていえば そうなるしかないからなっているだけのこと。たぶん 小学校の修学旅行で八甲田に向かう途中の萱の茶屋で、長生きのお茶をを3杯のんじゃったせいかもしれない。文字通り死ぬまで生きる、となってしまった死ぬまで生きる!?【お土産】にぜひ!長生きのお茶/お土産特集-じゃらんnetたはは(^^);
泣かせる余命コンテンツは観客にとって他人事の悲劇だから、安心して泣いて感動できるのだろう。原材料提供者にまわったら、とてもつらくて消費者たり得ない。